東京情報大学「歴史の方法」第5回 広告・宣伝の歴史(1)
Last Updated:
2013/05/26 18:19

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今週から3回にわたって、広告・宣伝の歴史について見ていきます。
今回は江戸時代を中心としてお話します。

Contents

1.身近なモノの歴史をたどる。
身のまわりにある物事の大部分には歴史的な背景があります。
今回は、至るところに溢れている広告の歴史を見てみます。

https://www.youtube.com/watch?v=z29j-hgSiHE
洛中洛外図から見える広告1
江戸時代以前の広告はどのようなものだったのでしょうか?
江戸時代初期に書かれた「洛中洛外図屏風」(船木本)を見てみましょう!
洛中洛外図に見える広告2
京都の町並みを描いた同図には、京都の商店が細かく描かれています。
扇を売る店には扇をモチーフにした紋が。
洛中洛外図から見える広告3
髪結屋では、櫛や鋏、髻を結うための紐が描かれています。

このような、看板が広告のはしりでありました。
江戸時代の看板1
この系譜は、江戸時代には様ざまな形で発達していきました。

たとえば、酒屋の前に吊るされた酒林は、最初は青々としているのですが、段々と枯れていきます。酒林が茶色くなった頃にお酒が飲み頃となります。
江戸時代の看板2
看板は、店のことが良く分かるように、商品の形をしたものが多くありました。
例えば、筆屋は筆。
江戸時代の看板3
両替商は金や銀の重さを量る分銅。
江戸時代の看板3
蝋燭屋はロウソクの形をした看板を掲げてました。
江戸時代の看板4
18世紀末の寛政期から、19世紀の化政文化に活躍した戯作者である式亭三馬は息子の小三馬と副業として薬と化粧品の店「式亭正舗」を営んでいました。
この絵を見ると、金勢丸や江戸の水といった商品の看板がかかっていることが分かります。
また、三馬は自らの戯作の中に店で扱っている商品を載せるという、現代で言うクロスメディアの手法を行っていました。
引札の誕生
 引札とは、江戸時代に誕生した宣伝文句や挿絵で構成されたチラシ広告です。
 最古の引札は、天和3年(1683)に越後屋(現、三越)作成した「呉服物現金安売無掛値」書かれたものです。江戸では宝永年間(1704-10)に普及したと考えられています。江戸期の広告は、各地の物資が集積され経済の中心地であった大坂と、50万人の武士が住み一大消費都市であった江戸を中心に発達しました。
引札の誕生
引札は絵と文章で構成されていました。
例えば、この「そめいさん」(蘇命散)の引札は、特許などの知的財産権の概念が無い時代に偽者が出回っていたので、本物の天狗が偽者の天狗を投げ飛ばす内容となっています。
引札の誕生
引札の製作には、戯作者が関わることが多く、人気がありました。式亭三馬の息子である小三馬が文章を書いた、小間物問屋の引札です。
現代風に言えば、多くのクリエイターが引札の製作に関わっていたのです。
引札の誕生
引札は店舗や商品の宣伝だけではなく、歌舞伎や動物見世物などの興行の際も作られました。
江戸時代にはオランダを経由して海外からの動物がやってくることがありました。一番人気があったのはラクダです。
江戸のクロスメディア
江戸時代の広告は看板や引札だけではなく、各種メディアを用いて商品名を浸透させる広告手法が行われていました。

享保3年(1713)には歌舞伎役者の二代目市川団十郎が「若緑勢曽我」の中で小田原の薬である「外郎」の宣伝を始めました。これが歌舞伎十八番の「外郎売」です。

https://www.youtube.com/watch?v=cZS5wPvRiPU
江戸のクロスメディア
明和2年(1765)に鈴木春信によって多色刷りの錦絵が発明されました。
18世紀末頃になると、商人たちはメディアとしての錦絵に注目するようになり、商品名や店舗が取り入れられるようになりました。喜多川歌麿「御夏煙草入品々」(寛政8年(1796)は戯作者の山東京伝が京橋で開いていた煙草屋が描かれています。
江戸のクロスメディア
江戸時代末期に描かれた落合芳幾「時世粧年中行事之内 競細腰雪柳風呂」は、当時の社交場であった銭湯の光景が描かれています。
背景には、寄席の引札が描かれております。これは人の集まる場所に広告が出されていたことを描写するだけではなく、この絵を見た人を対象とした宣伝にもなっています。
江戸のクロスメディア
三代歌川豊国「今様見立士農工商 商人」(安政4年(1857)には、絵草紙問屋「魚栄」の店頭が描かれています。
魚栄は歌川広重の「名所江戸百景」の版元として知られています。
江戸のクロスメディア
初代歌川広重「名所江戸百景 びくにばし雪中」安政5年(1858)は、現在の中央区京橋周辺が描かれています。左側の「山くじら」の看板はイノシシを出す店で、右側の「○やき十三里」とあるには焼き芋出す店です。
「名所江戸百景」は江戸に住む人々に向けて作成されました。これは版元の魚栄が、従来地方から来た人向けに出された名所絵のマーケティングが行なった結果だと考えられます。
江戸のクロスメディア
18世紀後半から、名所・旧跡をまとめたガイドブックである名所図会が作られるようになりました。
天保7年(1836)に斉藤月岑が「江戸名所図会」を完成させました。この本には、名所旧跡の他にも、各地の人気店が紹介されており、広告としての側面がありました。
絵は現在の目黒駅そばの行人坂上にあった富士見茶亭(屋)です。
江戸のクロスメディア
行人坂上の富士見茶屋は歌川広重「東都坂尽」にも描かれています。
ノベルティグッズ
ノベルティグッズ、おまけも多色摺りが普及した、江戸時代後期に作られていました。

三河町の紐糸を扱う店であった丁子屋が作成した絵双六には「糸わた」「まりいと」など取り扱い商品が書かれています。
ノベルティグッズ
お店の開店や大売出しの際に景物本と呼ばれる本が配られることがありました。
景物本とは、戯作者が店舗や商品を絡めて書いた内容で、ノベルティとして人気がありました。
一番最初の景物本は、寛政4年(1792年)に山東京伝が日本橋の紅問屋玉屋の開店記念に書いた「女将門七人化粧」と言われています。写真は天保6年(1835)に式亭三馬が経営する「式亭本舗」で出された「賑式亭福はなし」です。
江戸の情報文化
この背景には、江戸時代の18世紀中頃から出版・印刷文化(情報文化)が進展した点にあります。先述の引札や錦絵・名所図会の他にも、草双紙・瓦版・錦絵など様ざまな出版物印刷物(摺物)が流通していました。本草学や蘭学が発達したのも同じ時期です。江戸時代の人びとは多様な情報や知識を求めており、引札もまた、その対象であったと言えるでしょう。
江戸の情報文化ー江戸の識字率ー
江戸の情報文化の発達の背景には、識字率の高さがあります。
江戸東京博物館の北原進氏によると、江戸市中の識字率は90%を越えていたという指摘があります。

また玉屋吉次郎「天文測量器略目」があるように江戸の町人が天文学に興味を持つような環境がありました。
江戸の情報文化
天文学の他にも、和時計やからくり人形の仕組みを解説する本も出版されました。寛政8年(1796)に細川半蔵が記した機巧図彙(からくりずい)が発売されました。

江戸時代後期には、この本を趣味で読むような雰囲気が醸成されていました。ぞして、からくり人形師の中には、東芝の創業者である田中久志がいます。
https://www.youtube.com/watch?v=rc93r0onyZg